【教員から教員コーチへ】自己投資の重要性!51歳で起業するまで道のり

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ブログ 教員コンパスで特別支援学級担任向けコーチの過去とこれからの話

人生の道のりには数々の挑戦と学びが待っています。昭和46年生まれの私は、幼少期の移住から数々の転職、そして教員としてのキャリアを経て、教員コーチになるまで多くの経験を積んできました。

特別支援学級の担任としての経験や、自己投資を通じて得た成長は、今の私を支える大きな力です。

この記事では、私が困難を乗り越え、新たなキャリアを築くまでの過程をお伝えします。自己投資と行動の大切さを実感し、あなた自身の可能性を広げるヒントを見つけてください。

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目次

幼少期から高校「公害から逃れ北海道へ」

記憶があるのは保育園時代から。大人の顔色を伺う子供でした。

大人に気を使ってた保育園時代

昭和46年、神奈川県川崎市で生まれる。工業高校出身の父と商業高校出身の母、弟の4人家族。父は川崎重工で働き、公害のひどさから2歳の時に北海道帯広に引っ越しました。

特に十勝は「水と空気がきれいで晴れが多い」ということで帯広の市営住宅へ。頼れる親戚も全くいない状態。

父はトラックの運転手、母はお寿司屋さんで私を背負って皿洗いのバイト。

お風呂もなく狭い市営住宅だったけれども、

両親が必死に働く姿を見ていたので幼い時から、周りの大人に迷惑をかけまいとするような子供だった。

保育園では、自分は女の子の顔のつもりで作った作品を保育士から「何作ったの」と尋ねられると「どう答えると先生は喜んでくれるだろう」と考えて答えるような子供だった。

唯一嬉しかった思い出は、父が大きなトラックで私のお迎えに来てくれたこと。

友達から「トラックすげー」「かっこいい」と言われ、得意になった思い出。

小学生「父とソフトボールの思い出」

小学校時代はそこそこ勉強も好きで友達もいました。母親は感情的になる点が苦手で、無口な父親の方が好きでした。

夏休みは地域の公園で朝7時からラジオ体操をし、その後に地域の町内会の子供たちで保護者がコーチをする運動クラブがありました。

ほとんどの子供は男子はソフトボール、女子はドッジボール。

けれども私は、父がソフトボールのコーチをしている関係で、私だけが女子でソフトボールをしていました。

試合に出ると女子の選手は珍しがられるので、それが嫌で嫌で仕方ありませんでしたが、ソフトボール自体は楽しかったです。

足が遅いので守備はライトかセカンドかピッチャーの補欠。時々ピッチャーをすると、バッターが「え、女のピッチャー??」という顔を見るのも楽しかった。

そんな小学生時代。女子より男の子の友達の方が多かったかもしれません。

ある年のクリスマスプレゼントでオルガンを買ってもらいました。でも弾ける曲は「ネコ踏んじゃった」レベル。

先生についてレッスンを受けてなかったので、学校で習った曲で鍵盤ハーモニカで弾けるような曲を適当に引いていました。

インドアな中学生

中学に入るとソフトボール部にスカウトされましたが、町内会のソフトボールチームと部活動ではレベルが違いすぎ、文化系のクラブに入りました。

父のお古カメラをもらい、写真部へ。

休日は洋裁にはまって1日ミシンを動かしていて、すっかりインドアになっていました。

中学2年生の時に母が食堂をやりたいとの思いがあり、食堂兼自宅の家を新築し引っ越し。

母は朝から夕方まで社員食堂で食事を作るパート。その後自営している食堂の仕込みをして営業。しかし赤字続きですぐに廃業し、貸店舗としてお寿司屋さんが入ることに。

中学や高校の卒業イベントでは友人達を呼んで、お寿司パーティーをしました。なんて贅沢!!

バドミントンに明け暮れた高校生

高校受験は管内で3番目の学校へ進み、高校時代はバドミントンに明け暮れました。

ミスをすると顧問の先生からラケットのフレームで頭を叩かれたり、先輩後輩の関係が厳しかったりしましたが、毎日の10キロジョギングのおかげで、校内マラソン大会で1,000人以上の中でベスト10に入ることができました。

田舎の学校だったので畑の中をひたすら毎日10キロ走り、腕立て、腹筋、背筋、それぞれ100回×3セットを毎日続けてきました。冬は雪で走れないので4階建ての校舎内をぐるぐる走る。

バドミントンはふんわりしたスポーツだと思われる方もいらっしゃるかと思いますが、実はそうではなく、瞬発力と筋力、動体視力も必要です。

小学校の時から走るのも遅く、反復横跳びの結果は悪かったのですが、長距離走やシャトルランなどは平均よりも良い結果でした。

私はコツコツと毎日続けることが得意なタイプなんだと思います。

迷う進路

私の通った高校は進学と就職が半々ぐらいで2年生からどんな進路がいいか考えなければいけないのに、バドミントンに逃げていて自分の将来のことを真剣に考えていませんでした。

進路を決めなくてはいけない時に、母親の友人で幼い頃から私を知っている方に「家庭科の先生になったら?」と言われました。

「裁縫好きだし、いいかも」と思いましたが、その頃父が技術部で機械を修理する仕事をしていたのが、上層部の指示で営業部になり人付き合いが苦手な父は、適応障害の症状で退職。一気に経済的に不安な状態になりました。

父は運転代行の仕事でなんとか家族を支えようとしてくれていたのですが、私は進学を諦め就職することにしました。

この時お金がないと、「人生の進路も自由に選べない」と自暴自棄になりました。お金がないからとバドミントンも辞めて、アルバイトに専念することに。

アルバイトは、ファミレスや大手スーパーのおもちゃ売り場で、当時ミニ四駆やスーパーマリオなどが流行っていて、子供達で賑わっていました。

また子供のためにプレゼントを買う人も多く、包装の技術はこの時に学びました。

元々何をしたらいいか決めかねていましたが、担任の先生に「とりあえず公務員を目指してダメだったら民間に就職します」と言ったらめちゃめちゃ怒られました。

「とりあえずで進路を決めてはいけない。もっと真剣に考えろ」

そう言われても社会のことは私が経験した、ファミレスとおもちゃ売り場しか知りません。

どうしたら、より良い人生になるだろう・・とかではなく、みんなが良いと言っている就職先を選びました。それが銀行でした。

就職、転職「自分探しの旅」

高校卒業後、初めての就職先はホテルでしたが、長続きせず、転職を繰り返しました。スキーツアースタッフとして働いた経験で人とのコミュニケーションの楽しさを知り、バスガイドとして働く中で教員を目指す決意を固めました。

高校卒業後の就職

銀行は当時、「結婚したら退職します」と言わないと落とされると聞いていたのでそのように答えました。

今なら大問題!セクハラ、パワハラです。

しかし、銀行は不採用。1次は通ったのですが2次の面接でダメでした。

面接の練習をしてくれた校長先生から「あなたを落とすなんてたいした銀行ではない」と言ってくれましたが、そうは言っても・・・。

周りの同級生が就職先や進学先が決まっていく中で、私だけ就職先が決まらない焦りで、絶対受かりそうという地元のホテルの試験を受けました。

結果合格でしたが、あまり乗り気ではありませんでした。なぜかというと、同期の人たちは管内で最低ランクの高校の出身だったからです。

「私はあの人たちと同じではない。もっと能力は上だ。だって管内で3番目の高校の卒業なんだから」

と同期のことを見下していました。3番目って平均程度でなんて偉そうな考えだったのでしょう。自分は大した学歴もないのに、当時「3高」とか「学歴社会」などのイメージに影響されてたと思います。

しかし、彼女らは高校時代にそのホテルでアルバイトをしていて、そつなく仕事をこなしていたのです。

仕事も人間関係もうまくいかない

私は初めてのホテルでの仕事で不慣れ。しかも父と同様に人とのコミュニケーションが苦手。

お辞儀には3種類ある。指は・・・目線は・・・声は・・・と何度も練習。その後、学んだことをノートに書いてマネージャーに宿題として提出。やる気もなく面倒で仕方なかった私は「お辞儀は3種類、15度30度60度」とだけ書いて提出。接客業を完全になめていました。

同期の人たちとも仲良くできず、上司や先輩からは怒られ、得意な英語が活かせると思ったけれども話す英語は「Are you finish」「Thank you」くらいで仕事にやりがいもなく、なんと2週間で退職しました。

「私にはホテル業は合わない、事務系の仕事が良い」と思い転職しました。

当時バブル絶頂だったので就職先はいくらでもありました。すぐに新聞広告で見つけた会計事務所に応募すると採用。

しかし、仕事は会計簿をひたすら検算。電卓をひたすら叩くだけ。自分がこんなことをやりたかったのかなと思い、会計事務所も1ヶ月ほどで退職。

しかし、またすぐに転職。今度は営業系がいいだろうと思い、自動車会社の営業事務の仕事をしました。

こちらは営業の人たちの成績を計算し売り上げを出す仕事で、会計事務所よりは、ましでしたが2ヶ月で退職。現状に不満があるとすぐに逃げる、我慢ができない私でした。

上司や同僚とも仕事の話以外何を話したらいいのかわからず、コミュニケーションが取れません。

繰り返す転職から新しい道へ

そもそも何がしたいのか、私に何が向いているのか考えてもいませんでした。

そんな時にまた新聞広告で、スキーツアースタッフの募集を見て、「仕事をしながらスキーもできたらラッキー」という甘い考えで応募し合格。

仕事内容は本州から飛行機で来たお客様をスキー場やホテルまでバスでご案内し、帰りは空港まで送るというスキーツアー専門の添乗員のような仕事でした。

初めて人前でマイクを持って話をする経験をしました。

「◯月◯日、本日の◇◇スキー場の天候晴れ、気温マイナス25°c、積雪 130cm」などと伝えると、お客様が驚いたり、北国の暮らしについての質問に答えたりしていることが楽しく感じられました。

また、スキーツアースタッフの中には有名人の親戚やミス何々と言った目立つ人たちもいて、新聞社から取材を受けることもありました。コミュニケーションが苦手だと思っていた私ですが、この時の同僚の立ち振る舞いを見て学び、真似るようにしました。すると今まで苦手だと思っていた人付き合いが、上手にできるようになってきたのです。

ホテルの従業員の人やバスガイドさん、レンタカー会社の人たちとも仲良くなって飲み会に参加したり、スキーをしたり楽しみました。

高校卒業して就職したホテルにそのままいたら、決して出会えないような人たちに出会え、人とのコミュニケーションの取り方を学び、やっと社会人として大人の仲間入りができたような気がしました。

けれども、スキーシーズンが終わったら、この仕事は終わり。

楽しかった仕事をずっと続けていきたいと思い、バスガイドになろうと思いました。

そして親元から早く独立したかったので、東京で寮があるバス会社に就職。

寮生活は先輩後輩関係が厳しくもありましたが、毎日が修学旅行のようで同期の友人たちと一緒にご飯を食べたり、夜の街で遊んだり、夏は海、冬はスキーに行ったりしていました。

秋は修学旅行のシーズンです。毎週のように仕事で、栃木県の日光に行っていました。

いろは坂では、子供たちがバスに酔わないように「『い』の看板を見つけてね」「滝があるから探そうね」などと話しかけ、いろは坂を登り切った時に子供達から「運転手さん、バスガイドさんありがとう。お礼にみんなで歌を歌います」と「踊るポンポコリン」の歌を大合唱。

「なんていい子供たちなんだろう。この子供たちは将来どんな風に育っていくんだろう」と子供が成長するその先を見たいと思いました。

大学生「働きながらの挑戦」

漠然とですが「教員の仕事っていいな」と思い始めました。

しかし当時の私は、高卒で教員免許もありません。

当時22歳でしたが、同級生は大学を卒業している年齢です。「今から大学に入っても同級生の後輩になってしまう。そんなのかっこ悪いな」と思っていました。

ですが、そんな私を励ましてくれた友人Kがいました。

Kから「通信教育で大学の卒業資格と教員免許を取った人がいるよ」と聞き、Kからその友人を紹介してもらいました。

話を聞いて「私でもできそう」と思い、翌年23歳で大学の通信教育部に入りました。

大学生活は働きながら学ぶのですが、バスガイドをしながらでは難しいのと結婚相手の都合もあり、学童保育の指導員の仕事に転職しました。

通信教育の学習は、

・教科書を見て2000文字程度のレポートを書いて、そのレポートを出してテストに合格したら単位がもらえる

・大学に行って授業を受けてテストを受けて単位をとる、スクーリング

の2パターンでした。

スクーリングの単位は順調に取れていたのですがレポートの方がなかなか進まず、3年生で90単位取らないと教育実習を受けることができないということを分かっていながら、2年生までほとんどレポートを出していませんでした。

そんな中、スクーリングで数学の授業を受けました。

学生の中に耳の聞こえない方がいて、手話通訳のボランティアさんが黒板の横で通訳。

普通に聞こえている私でも簡単には理解できない難しい数学の授業を、手話を通じて学んでいる耳の聞こえない方の苦労を思うと、私の苦労は大したものではないと恥ずかしく思いました。

他にも車椅子の方、70代の方、子育てをしながら通っている方など、様々な境遇の方がいて、「五体満足で何の苦労もないのに、レポートが書けない、テスト勉強ができない、なんて甘えだ。絶対に4年で卒業する」と決意しました。

それからは1週間に1通のレポートを書くと決め、休みの日は地元の図書館で1日勉強しました。

私にとって大学は学びの場ですが、図書館も勉強場所としての第二の大学です。

数百通のレポートを出し、無事に教育実習を受けられました。

教育実習は小学校2年生。大学の先輩が子育て中にも関わらず大変ななか、指導教官を引き受けてくれました。

朝7時に学校に行き、掃除。指導教官よりも早く登校して遅く帰る生活でした。

今考えると「この4週間だけは頑張ろう」「終わったらゆっくり休める」との思いで、学校に行っていました。

こんな働き方は持続不可能。でも「良い評価を得たい。良い教育実習生だと思われたい」との一心でした。

子供の時、大人の顔色を見て自分の言動を変えるところが、大人になってもまだあったのです。

そして、無事授業も終了。その後の単位取得もでき4年間で卒業することができました。

この時、4年間で卒業した卒業生は私を含めたった2人。

ほとんどの学生は5年〜10年かかって卒業するか、途中で辞める人も多いそうです。

高校時代バドミントンでコツコツ続けていた特技を、大学卒業にも活かせました。

教員としてのキャリア

教員としてのキャリアは、多くの試練と学びの連続でしたが、その中で得た経験や知識は非常に貴重であり、現在の活動にも大きく役立っています。

過労やストレスから適応障害やメニエール病を発症。療養休暇を取って健康回復に努め、最終的には教員を退職するまでの話。

教員採用試験と自己投資

教員採用試験のため、26歳から25年以上の間ピアノを習ってきました。

小学生の時に買ってもらったオルガンは物置になっていて、ピアノがあったとしてもきちんと先生から教わらないと上達しないと知っていたからです。

北海道の教員採用試験にピアノで弾き歌いとバイエルの課題があり、未経験から「ケイコとマナブ」で調べたピアノ教室へ。

普通ピアノといえば小さい子供が始めるものと思っていました。

20代でピアノなんて、できるようになるものなのか心配でしたが、優しく褒め上手な先生のおかげで月2回のレッスンと年3回のピアノコンサートを続けられました。

最初は先生や上手な人と連弾だったけど、いつの間にか1人で弾けるように。そして教員として、低学年の音楽の授業では歌や合奏の伴奏も。

さらに音楽発表会では、千人規模のホールでの経験。こればっかりは、度胸と経験。下手なりに続けてきてよかった。ここまでに使ったのは、時間とお金。

代わりに一生使えるスキルと一生涯のピアノ友達や先生。

月謝は年間14万円×25年=3,450,000円の投資でかけがえのない誰にも奪われない財産を得られた。

「26歳でピアノを始めるなんて遅すぎる」と思っていたら今の自分はいない。自分を成功させたいなら「自己投資と行動」しかない。

そして、採用試験に水泳も。課題は、2泳法を25メートルずつ。

平泳ぎはできていたけど、クロールの息継ぎができない。

このままではいけないと近所のスポーツクラブへ。週1回の無料のレッスンでは、とても上達できそうになく、マンツーマンで受けられる個人レッスンを申し込み。

すべては教員採用試験と合格後に体育の水泳指導に活かすため。

1回8,000円を5回ほど受けてクロールの息継ぎができるように。当時の私は手取り20万弱の給料でやりくりしてて、月謝は大金でした。でも、やはりマンツーマンレッスンは違う。できるまでのスピードが速いし、私のレベルに合わせてくれて、「分かる、できる」喜びを実感。

それ以来、水泳が趣味の一つになりました。

大学4年の教員採用試験は不合格。

臨時的任用の講師の仕事も数十人待っている人がいて、すぐには声がかからない状況。今の人手不足の状況と比べて、考えられないですよね。

教員の世界

最初の仕事は小学校の特別支援学級の支援員。今は必要ありませんが、当時は教員免許がないとできない仕事でした。

知的障害がなんなのかもよくわからないまま、大学の先生に相談。「普通の子供と同じだと思って接したらいいよ」と言われ、思い切って特別支援の世界に飛び込みました。

・言葉が上手に発せられない子。

・ゆっくりで時間がかかる子。

・多動ですぐにいなくなる子。

1日子供を追いかけて過ごす毎日。

でも主任の先生から多くのことを学び、「よく子供達と笑ってるね」と言われるほど楽しく働いていました。

バスガイドの世界はセクハラ、パワハラは日常的で、「嫁と喧嘩したから俺は機嫌が悪い」と朝から突然怒鳴られたり、お客さんにお尻を触られたり・・・は普通のこと。男尊女卑の世界で、宿泊時や社員旅行のバスの中では、お酒を作って回るので、ほぼ水商売でした。

そんな世界からきた私は、教員は「お茶は自分で入れるし、暴言も言わない」とセクハラもパワハラもない、当たり前のことに安心感を感じていました。

しかし、毎年の教員採用試験に受からない。

私はコツコツ積み上げるのは得意だけど、大学受験を経験していないため、一般教養が大の苦手。「一般教養の点数を上げるためには、予備校に通うしかない」と思い、代ゼミ、東京アカデミー、時事通信社などのセミナーに参加しました。

当時半年で30万円ほどの投資。だけど「受かれば、教員の給料が得られるから絶対に元が取れる」と思いました。

結果7回目の受験で合格しました。

正規採用「試練と成長」

私の採用された自治体では、新規採用は通常学級の担任となります。配属先は学年2学級の小さな学校で初任は私1人。2年目3年目の先輩は年下。初めての通常学級は2年生。

それまで特別支援学級でマックス8人だったので、通常の学級26人は少ない方ではありましたが、大変でした。とにかく丁寧に見すぎてて、授業が全然終わらない。

できない子供がいても教育課程が決まっているため、次に進めなくてはいけない。子供ができていないことをわかっていて次に進めないといけないのが苦しかった。

2学級のうち、もう1学級の主任の学級では授業はどんどん進んでいるのに、自分の至らなさに激しく悩みました。

私の学級は落ち着かないけど、主任の学級はいつも落ち着いていて静か。

何とかしたくて、毎月大きな街の本屋さんに行っては、10,000円、20,000円と本を買い漁りました。今のようにネットも普及しておらず、情報もなく、主任の先生についていくのに必死でした。

朝7時から7時半には出勤。帰りは21時。翌日が休みの日は0時を回ることも。

やってもやっても終わらない。

準備が足りない。

子供をうまく導けない。

ADHD、発達遅滞、学習障害、落ち着きがない、集金を持ってこない家庭、保護世帯などなど。

初任者指導教官は週に1度来てくれて、授業や指導案の改善点ややることの指示をたくさん出しておきながら、最後に「早く帰るんですよ」

「そんなに色々言われても、早く帰れるわけないよ」

と矛盾を感じていました。

学年主任はとても優しくて、たくさん教えてくれたけど、圧倒的に実力差があって追いつけない。主任に聞きたくても忙しい手を止めてしまうのが申し訳なく、こっそり黒板を見てはメモ。

本で読んだことを実践してみても、色々な筆者の考えが混じってしまい、自分の考えの軸がない。ずいぶん遠回りで無駄なことをしてしまいました。

クレームに涙するも

保護者とのやりとりでも言いがかりのようなクレームをつけられることもあり、辛かった。

3月生まれの体の小さな女の子が、手に荷物を持つと危ないからと、ランドセルに入れ直してあげると、家に着いてから「どうして手に持たせなかったんだ」「家では手で持たせるよう教えているのに余計なことをするな」とクレームの電話。良かれと思ってやったことに対し、感情をぶつけられひどい言葉で怒鳴られた。

また、子供の嘘を信じて、

「うちの子が先生に話があると言ったのに先生はお仕事があるからと聞いてくれなかった。忘れ物したのは先生のせい」と責められた。

反面、「先生のおかげで学校が楽しいと言っています。ありがとうございます」とか「算数が苦手だったけど好きになりました」など、ありがたい声も。

同じ指導をしていても、受け取る相手次第で、良い、悪いと捉えられることがあると学びました。

落ち着かなかった学級でしたが、たくさん褒めること。子供を愛することで落ち着いてきて、子供達が私を助けてくれるように。

3月の2年生のお楽しみ会で、「きみとぼくのラララ」を子供達と歌いました。

「さよならなんて言わなくてもいいよね。また会えるね♪」

歌い出しから涙。「先生泣いてるー」と言われながら伴奏しました。

クレームの涙とは大違いです。

2年目特別支援学級へ

そんな通常学級の楽しい思い出でしたが、2年目は特別支援学級担任。

前の年の担任は全員異動でした。校長から年末に「特別支援学級に行かないか」と言われ、相談した指導教官から「特別支援学級なんて、もったいない。ちゃんと通常学級で経験を積んだほうがよい」と言われましたが、『特別支援学級なんて』という言い方をされたことが悔しかった。

絶対に特別支援学級の担任として成功すると思いました。

校長に特別支援学級の担任を承諾する代わりに、条件をつけました。

「ベテランの主任と組ませてほしい、学ばせてほしい」

願いが叶い、今でも私の書籍のベストセラーや出版社からの雑誌掲載の依頼を喜んでくれ、応援してくれるI先生。

厳しいこともたくさんありましたが、根本は暖かく、私の特別支援学級の学びはI先生からいただいたものです。

1年目は特別支援学級新任者研修があり、悉皆研修として出席。研究授業もありました。研修自体は正直なところ役に立ちそうなものは半分くらい。

教科書選定や教育課程の組み方、知能検査の実践などなど。

一番知りたい、具体的な授業の方法の研修がない。

それを教えてくれたのがI先生。

毎日、多くのことを学びました。

I先生は通勤に片道1時間半かかるため、定時で帰っていました。

いつも遅くまで残っている私に「そのままその働き方していたら過労死するよ」

確かに当時30代で若かったから大丈夫だったけど、これを60歳まで続けられるのか。

これから出産や育児ができるのか、不安でした。

でもどうしたら、時短ができるのかがわからない。I先生しか教えてくれない。

I先生の時短技を徹底的に盗みました。

ある時、子供が雲梯から落ちて救急車で運ばれた時に放課後、家庭訪問に行きました。その時にいつも定時で帰っているI先生が、同行してくれました。

ピンチの時に寄り添ってくれるI先生を心強く思い、「一生ついていこう」「私もこんな人になりたい」と思いました。私はコーチング講座の受講生にとって、I先生のように寄り添ってあげられる存在になりたい。

3年で異動

I先生とずっと一緒に働きたかったけれど、初任は3年で異動。多くの学びをくれたI先生と別れ新しい学校へ。赴任先はベテランのN先生がいるにも関わらず経験を積むためと、学年主任に。

初任の学校の特別支援学級では、低学年ということもありほぼ字が読めない子供だったのですが、2校目は高学年担任になり、全員黒板を読み書きできるという実態。

それだけ保護者からの要望も多くあり、学習指導に重きをおく学級経営。反面、子供Aが他害をするため、保護者の中から不満の声が出ていました。

異動して最初の懇談会で、「懇談会には子供は参加できません。下校方法をお知らせください。連絡がない場合は1人下校と判断します」と事前にお知らせしていたにもかかわず、Aの保護者からの連絡がなくAを下校させました。しかし、Aの保護者は前年までAを同席させていたので、今まで通りと思っていたのです。

Aが1人で帰ったことで、Aの保護者は慌てて帰宅。幸いAは、無事に玄関前にいました。

そこから悪夢の始まりで、Aの保護者から私がAの安全を怠ったと目の敵にされ、事あるごとにクレーム。反論する機会も奪われ一方的に、「前の先生が良かった」「子供が学校行きたくないと言っている」と言われたい放題。

新任の時に支えてくれたI先生もいなく、N先生からは「自分でなんとかしたら」と相談できない。

Aが友達に暴力を振るっても「うちの子は悪くない」と謝らない。

他の保護者からは、Aに対するクレーム。

私は泣きながらI先生に電話。

Aの保護者からは「来年は違う担任にして」と言われ、次年度は学級増になり、講師がAの担任に。

変則的な学級編成でしたが、その年6年生になったAの担任を外れました。

申し訳ないけど、Aが卒業の時に、これで縁が切れるとホッとした気持になりました。

そして、Aの保護者がこっそりN先生に「やっぱり講師の先生よりもぷーた先生に担任して貰えば良かった」とぼやいていたと聞き、本当に意地の悪いことですが「自業自得だ」と思いました。

この時私は、全員に等しく全力で指導支援することの無意味さを実感しました。私を頼ってくれる人に全力を尽くし、それなりの人にはそれなりの対応でよいと割り切るようにしました。私の時間は限られているし、頑張っても報われる努力と報われない努力があると思ったからです。

健康問題と療養休暇「壁を乗り越えて」

働き方改革したくてもできない事情。それは一緒に働く先輩や同僚次第によること。

5年目で療養休暇

新しい年度になってベテランのN先生が異動。代わりに来たのは、M先生。前任校から異動先に子供を連れてくるような人。

パワフルで、ピアノ、編曲、作曲やダンス、書道など、なんでもプロ級でした。

しかしこの時期、毎日21時まで働くスタイルが当たり前に。それまで19時くらいには帰れるようになっていたのに、初任の時に逆戻り。

「さぁ帰ろう」と思って帰り支度をしていると、M先生から備品の注文ができてないからと21時から打ち合わせが始まり、終電になることもしばしば。

ある時、他校の先生から「ぷーた先生、提出物が出ていません」と連絡がありました。とっくにM先生に渡していた文書が、M先生のところに止まっていてM先生が「ぷーた先生が出さなくて困ってる」と・・・。

手柄は自分、ミスは人のせい。まるでジャイアンです。

このM先生に振り回され、一体いつになったら帰れるのかわからず、だんだん心身を病んでいきました。

スーパーが開いている時間に帰れない、食事も睡眠も取れない。

ある日、出勤しようと学校の最寄り駅に着くとムカムカして嘔吐。行かなくては・・・・でも、このままでは学校に行けないと、電話。

教頭から「療養休暇を取れ」

適応障害の診断で3ヶ月の療養休暇を取りました。

原因はM先生だから、休んで復帰してもまた同じ環境で同じ考え方で働いたなら同じことになると医師に言われ、M先生に対する考え方を変えました。

そのために、たくさんの本を読み、保険外のカウンセリングも受けました。

その時は、お金よりも自分の健康が大事。お金は健康であればまた稼げると考え、数十万円の漢方の講座にも入って学びました。

それまでI先生を尊敬し、学んできました。そして、I先生が仕事をしやすいよう常に考える働き方をしていました。

しかし、M先生は尊敬する部分はありましたが、人間的には疑問の部分も。思いつきで仕事を指示されたり、従うことに負担を感じていたのです。

そこで、M先生を先輩とは思わず、同期と思うようにしました。さらにその思いを本人にも伝え、私は18時には帰ること、自分の健康を優先したいこと、振り回されて仕事をしたくないこと、M先生の働き方はできないことをはっきり言いました。

M先生は教頭から「Mさんのせいでぷーたさんは病んだんだ」と言われたらしく、傷ついたようでしたが、私は「もうこの人に気を使わないでおこう」と思いました。

その後、M先生は別の問題で退職。

2020年のコロナ休校からメニエール

2020年2月新型コロナウィルスが広がり始めた頃に、子供達を玄関で見送った時に耳の奥がパチンと弾かれたような鋭い痛み。その日は用事で年休をとっていたため、急いで帰宅し用事を済ませようとしましたが、目が回って動けなくなりました。

床に倒れこのまま死ぬのかも・・・と思いながらさっきの耳の奥の痛みがどんどん広がっていく。そして激しい嘔吐。

「救急車呼ぶ?」

「耳が変」

「このまま死ぬ?」

目が回ってて文字が読めない。気持ち悪い。電話もかけられない。吐いても吐いてもまだ吐く。「もうだめだ」と思いました。

這うようにして、とりあえずベッドに。

嘔吐用の袋を枕元に置いて寝ることにしました。

翌朝、捕まりながら歩けるようになり、字が読めるようになり、傘を杖代わりに病院へ。

検査に時間がかかりましたが、診断はメニエール病。

原因はストレスによるものが多く、教員としてのストレスを自覚していましたが、コロナ禍をどう過ごしていくか、より一層悩んでしまったのもあると思いました。

メニエール病は薬でなんとかしていましたが、この薬は利尿剤で頻尿になります。当時3校目で高学年を担任していた時だったので、卒業式を迎えられるかが心配でした。

メニエール病を治すために、良いと言われるものを片っ端から試しました。

漢方薬、蜂の巣サプリメント、鍼灸。

保険診療できない治療を受け、総額100万円以上。

自分の健康はお金で買えないけど、買えるものなら買いたいと金額に関係なく、ただただ直したい一心でした。

徐々に症状はよくなってきましたが、皆さんもご存知のあの出来事が。

突然の新型コロナウィルスによる休校。

当時の学級は母子寮がある学区で、在籍児童の8割が母子寮から。

休校中の子供達は、毎日ゲームして授業や課題の動画を配信しても見ません。

徐々に1日おき登校や半分に分けての登校に変わっていきましたが、私たちの学級では、全員毎日1日登校にしました。

卒業式は練習が前日のみというスケジュールでしたが、子供も大人もなんとか落ち着いて終えることができました。

その年が異動の年で、いつか新規で学級開設をしたいと希望していた願いが叶いました。

念願の新規学級開設へ

正採用になって4校目の学校で1学年3学級の規模の小学校に異動。

メニエール病があることが心配でしたが、管理職に真っ先に伝えると「無理しないで休んで大丈夫ですよ」と言われました。

そうは言っても、自分の体調に気遣いながらの開設作業。

教材や備品もなく、何もかも0からのスタート。

新設時は教育委員会から注目され、指導課の職員が困り事はないか聞きに来てくれました。

まれに帰りが遅くなることもありましたが、ほぼ定時退勤していました。

慣れないながらも優秀な同僚や管理職に恵まれて、順調に1年目を過ごしていましたが、3月頃から徐々にまためまいの症状が出てきました。

でも卒業生がいたので、絶対に「卒業させたい」との想いでなんとか卒業式、そして修了式を迎えることができました。

めまいで休職

新年度を迎えた時も心配は変わらず。

これまで通り、メニエール病を治すための漢方薬、蜂の巣サプリメント、鍼灸を続けていました。

お金がかかっても、仕事を続けたい。私のもとに集まってくれた子供や保護者を裏切るわけにはいかない。と新設の年と同じように頑張ろうという決意でした。

しかし、新設の時はスタートが4人だったのが徐々に校内外から、転籍や転入が増えて年度末には10名超に。

次年度は2学級でスタートしました。

新しく着任したY先生に仕事を教えつつ、私も何時どうなるかわからない不安を抱えてのスタート。ですが、不安を口に出すと本当にダメになってしまいそうで、できるだけ元気なふりをして過ごしていました。

本当にめまいがひどくて辛い時は、放課後に「10分だけ休憩させて」と応接室のソファーで倒れるように横になり、体を休め、10分後に面談や打ち合わせをこなす日々。

今思えば無理に無理を重ねていました。

冗談で「私もうだめかもしれないから」「今のうちに流れを見て覚えておいてね。私がいなくなっても大丈夫なようにしていてね」とY先生に話していました。

退職のきっかけになったエピソード

あるとき近くの公園に遠足へ。

子供達はずっと楽しみにしていて、事前の注意事項やペア決めをして出発。安全に配慮していましたが、子供のすぐそばを猛スピードで車が通りました。「危ない」と声に出していましたが、体が動きません。本当なら子供のそばに行って言葉をかけなければいけないのに。

その時、「このまま教員を続けられない。大事故が起こってからでは遅い。もう体が限界だ」と思い、一旦休職することにしました。

かかりつけの耳鼻科で「とりあえず1週間くらい休めば治りますか」と尋ねると、医師から「数ヶ月単位で休まないと難しい」と言われました。

私は治したい一心だったので、今は医師のいう通りにしようと思い、まずは1ヶ月の療養休暇を取ることを決めました。

休むと決めるまでの葛藤は、言葉では言い表せないものです。

「本当にごめんなさい」

「でももう無理はできない」

「大事故になるかも」

「子供達、先生、保護者に迷惑をかけてしまった」

「あの子はどうしてるかな」

「先生達、大変な思いをしているだろうな」

・・・そんなことを考えて、罪悪感でいっぱいだった。

これまで血を流すようなけがを他害する子供から受けたり、ひどい言葉で保護者から罵られても耐えてきました。が、めまいは自分でどうすることもできません。

療養期間はどのように過ごしたらよいかわからず、たくさん調べました。

私にとって、1番良い過ごし方は「治療に専念をすること」だとわかりました。

療養休暇中は、漢方薬、蜂の巣サプリメント、鍼灸に加えて、プラセンタ注射も追加し1日おきに通いました。

自分の時間とお金は、全て病気を良くすることに使うと決めました。

とにかく教員を続けるにしても、辞めるにしても仕事はしなくてはならない。

当時離婚して一人暮らし。親は遠い北海道。自分の力で頑張るしかないと思いました。

体調は徐々によくなってきたものの、このまま教員でいていいのか悩みました。

ぷーた先生

もしも読者の中で病気でお休みした時に、どうしたら良いか悩んでいる方がいたらご相談くださいね!

退職後のキャリア

退職後のキャリアは、多くの試練と学びの連続でしたが、その中で得た経験や知識は非常に貴重であり、現在の活動にも大きく役立っています。今後も教育に関わり続け、多くの教員たちの支えとなることを目指しています。

父の死と母の手術

コロナ前の2019年のゴールデンウィークに、突然父が亡くなりました。悲しい事故で今でも夢じゃないかと思います。

父が亡くなった時、その喪失感は計り知れないものでした。しかし、父が私に残してくれた教えと記憶は、私の中で生き続けています。逆境を乗り越えるたびに、父の存在を感じ、励まされています。

父とは高校生になっても2人ででかけるほど仲良しで、たまに帰省すると無口ながらいつも一緒に車で出かけていました。

母からすると、とても偏屈で扱いにくい人ではありましたが、私にとっては多くのことを教えてくれた父でした。

母から父の事故のことを聞かされた時に、信じられないと思いましたが、父の遺体と対面し現実だと知りました。そして、もっと親孝行していればと後悔。

その翌年は母が手術で入院しましたが、コロナ禍で面会できず。

私が関東に引っ越してきた時、親の死に目に会えないかもしれないとは思っていましたが、「すぐに帰省できないってこういうことになるんだな」と人事のように思っていたのが現実になってしまった。

離婚したため、私の肉親は母と弟だけ。

その出来事から、何かあったらすぐに帰れる状況にしたいと思っていました。

退職して教員コーチ

療養休暇中は自分の将来のことを考えに考えました。

個性診断、ストレングスファインダー、自己理解。

こちらもプロに数万円払って相談。

高校卒業したころのように適当な考えではなく、真剣に将来について考え、結果退職することに。

そして退職までに健康を取り戻すこと、新しい仕事を考えることを自分に課しました。

プラセンタ注射は1日おき、漢方薬、蜂の巣サプリメントは毎日、鍼灸院は週に1回、その他整体でメニエールが治ると聞くと遠くの治療院まで行きました。これらの医療費だけで月に10万円以上費やしました。

おかげで徐々に体調が良くなり、歩く時間が元気な時の倍かかっていたのがほぼ元に戻りました。

まだ天候や疲れ具合によっては、めまいはありますが、自分のペースで動けるようになり、1人で旅行にも行けるようになりました。

転機となったのは「やすらぎの里」でのリトリートです。

やすらぎの里で過ごした1週間の多くの出会いのおかげで、「さぁこれから頑張ろう」「私を必要としている人の役に立ちたい」と改めて思いました。

この記事を書いている2024年6月には自転車に乗ったり、バドミントンや水泳なども楽しめるようになりました。

まだ完治とは言えませんが、この経験から「健康はお金に変えられない」と実感したのです。

そんななかで、メニエール病のことだけではなく、自分の将来の生き方、母のこともあり、2023年3月に退職。

子供達やお世話になった職員の方達にお別れの挨拶をして、教員から個人事業主に。

とはいえ、次の仕事をどうするか。個人事業主の友人に相談。

その友人の知り合いにブログで独立している方がいて、その方のセミナーに参加。教員時代には会えなかったような人たちに会うことができました。

自己投資と新たな挑戦

独学でやってはブログで食べていくことができないと思い、ブログの講座やX運用、Kindle出版の講座やスクールなどに数十万かけたり、コーチングを学ぶために100万円以上も自分に投資してきました。

教員時代はお手本とする先生がそばにいたおかげで、わからないことがあればすぐに聞くことができますが、オンラインでは難しい。この講座に入ったおかげで、いつでもわからないことが聞けて、教えてもらえることが1番の近道であると思いました。

たくさんの自己投資をしてきたおかげで現在は、教員時代の月収を上回ることもできました。

もしも健康のため、新しい事業のために、自己投資していなかったら貯金を食い潰し、生活保護になっていたかもしれません。

あの時勇気を振り絞って決断したことは、間違いではなかった。

そして出版した本が役に立っているとか、参考にしたいなどといった感想をいただけたり、教員コーチとして直接セッションで感謝の言葉をいただけたりした時は、最高にうれしいです。

今後のビジョン

教員同期の友人たちと話すと

「仕事が年々大変になっている」

「家族のために辞めたいけど、稼ぐ術がわからない」

「ぷーたさんが羨ましい」

と言われます。今後は、受講生に実際に会いにいくこと、体調が悪くならないよう気をつけながら働くこと、できれば夏は涼しい北海道や山、冬は温暖な四国など旅行しながらコーチングしたいと思います。

そして退職したいと思っていてなかなか踏み出せない方のために、私のやり方を教えてあげたい。教員としてのスキルしかない私でも、なんとかやってこれたのだし、私よりも若くて優秀な先生方なら成功できると思います。

今後は、

・全国の「特別支援学級担任のためのコーチング講座」に入ってくれた講座の受講生に会いにいく

・気候の良い場所で自由に健康的に暮らす

・退職したい教員のためのロードマップを示していく

を目指していきたいと思っています。

【教員から教員コーチへ】自己投資の重要性!51歳で起業するまで道のりのまとめ

ストレートに教員になったわけでもなく、教員採用試験には7回挑戦してきました。希望を実現するため、自己投資の重要性を実感し、ピアノや水泳のレッスン、健康のための漢方やサプリメントに多額を投じました。その結果、教員としてのスキルや健康を保つことができました。

現在は日本でたった1人の「特別支援学級担任向けの教員コーチ」として活躍し、自己投資の成果を感じています。健康やスキルアップのための投資は、自分の将来を豊かにする重要な手段なのでこれからも学んで自己投資していきます。

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